クズ所感

蟻以下が日々思うことをPDCAサイクりたかった。月2回程度。

20190926の所感~ADHD研究開発者のモチベーション管理を考える~

@背景
 仕事は研究開発で許されれば基本的に何をしても大丈夫
@課題意識
 何をするかが分からないとぼーっとして一日が終わりそう
 勉強期間が終わったら後で詰みそう
@やりたいこと
 目的と期間【難しい】、やることと達成度【謎】を決めて、有意義に開発をしたい
 @目的:業務についての理解
 @期間:おおざっぱに12月末なので3か月

 

20190926の所感~考えを深めることについて~

 私は思考することが苦手だ。身体を動かさずに頭の中だけで行う思考実験は、
同じ場所でループして深くまでたどり着かず終わる。記憶力も欠如している。
 だが私は思考することを止められない、寝る直前でさえとりとめのない考えが
浮かんでくる。それは単語だったり仕事の指針だったり音楽だったりオタク的
考察だったり雑多なものでフックになるようなアイデアだ。

 このアイデアに対して何故を突き詰めていけばよいものができる気がするのに
簡単な部分で止まってしまう。いつも人に話して突っ込まれて話が進むみたいな。

20190926の所感~文章を書かないとき~

 月に一度更新しようとしていてもすっかり忘れて今日になった。
定期的に更新する意味があるわけではないけれど、
文章を書かないときの心境を考察する。 

 文章を書く心境は何か書きたいことがあるからで、
このブログの意義はクズの思考を意識に浮上させ問題点を洗い出すこと、
「あるべき」思考を考察し社会との折り合いをつけること。
最初はPDCAを回すとか、好きとは何かの考察をしていた。
ブログに触発された時、おもむろにただ吐き出したい時もある。
生活がうまくいっていないと感じるとき、精神的に弱っているときだと思う。
何かを打開したくて整理をしているような感覚。

 文章を書かない心境は書くまでのモチベーションがないとき。
毎日何かしらを考えて生きているけれど、文章にまでして考察して
得られるものが少ないと感じるもの。めんどくさい気持ち。
特質した悩みがないとき。安定していると考えているとき。
問題があったとしても文章を書かない方法で解決できるとき。
他の要因で忘れているとき、仕事が忙しいとか。

 特段書くべきことが無いと思っても文章を書くことで
精神的にフラットな状態で思考理解が出来ると、
また違った見え方が出来るのではないかと考えた。

20190722の所感

お気持ちにすらならない駄文

選挙ってあったじゃないですか、クズなのでなんとなく行きそびれたんですけど。
調べずになんとなく行って一昨年まで行って栞をもらってくるって
イベントだと思ってるんですけど。
去年とかよく知らん奴が行かなくていいとか言われた謎イベントなんですけど。
なんとなく遠いものというか触ってはいけないものだと思ってるんですよね。

親のすねをかじってるときは企業のおんぶにだっこの先に投票してました、何となく。
でも今自分で選ぶ必要があるじゃないですか、どうしたらいいのか分からないんです。
ツイッターのTLで若者の投票率とか、選挙に行かないと~~みたいなものが流れてきて
少し調べるんですよ、でも結局わかんねーんです。
税金で給料減らされたくないしできるなら年金は払いたくないです。
でも他の国との交渉とか憲法とか、身近じゃ無さ過ぎるので放置。
生きづらさを変えてくれと思うけど演説でいう生きづらさとは違うやつじゃん~

一番の苦手ポイントはたくさんの人が話す内容と思ってることの両方から推察して
何をしようとしているのか考えること、政治ですね。
話すことがそのままの意味じゃないって日ごろから人間とのコミュニケーションで
エネルギーを吸われてるのにこれ以上考えたくない、
それが自分の未来を決めるとしてもそもそも社会に参加している実感ないです。
なんとなく関わりがあって今存在している、職場、友人、その他もなんとなくです。
大きな流れに流されていたらうまくなんとかなったりしませんか。

ただ歌を歌ったりアニメを見たり文章を書いたりして生きていたいツイッター2です。
次の選挙があったら行くのかなぁ、何に対しても腰が重いので今日もクズでした。

20190708の所感 ~「好き」感情における現象学的再考察~

①昨年の<感情:-好き>に関して現象学的に再考察をしたい。
4月の時点では与える側の好きについての考察をしたつもりなので
受け取る側の好きについて。
言葉による<感情:-好き>を受け取った側が、送信側に対して<感情:-好き>
を伝えるために個人に最適化された言語的返答とは何か。
好きとはどういう感情なのか、実践と観察を通して理解する試みである。
簡単にわかることなのかもしれないけれどAならばB、BならばCなどと
アウトプットの積み重ねでようやく理解するのがクズなんです。

与えるだけであれば自分に対して好きとか嫌いとか関係なく相手のことを
思いやるだけでよいと極論考えていて、
受け取るより与えるほうが優位というか考えることが少なくて楽というか
めんどくさくないなと思って自分から与える人間になろうみたいなこと
を考えていました。

受け取る側になったときに、いざ相手の好きを受け取ろうとすると
脳内が思考停止する、表面的にふわっとしたことをいうと照れる。
じゃあ私も、言葉で返すにはプライドが止めてなんて言おうとぐるぐるする。
だから自分の中で受け取れる分だけ受け取って疲れない程度に曖昧に返す。
ってことをしてたら人に気持ちを軽く扱われているように感じるといった
フィードバックを受けた。
相手を消費させてはいけない気持ちがあって本意じゃないのでどうにかしたい。

言葉での愛情表現が異なること。
他人なので選ぶ単語だったり、頻度だったり、気持ちの入り方だったりが
違うのは当たり前だと思う。現実に存在する自分の傍にいる相手は、
気持ちが入るたびに何度も好きを伝える。それが嬉しくて相手を信用している。

気持ちを相手に話すことについて、自分は足りてない自覚があるから
感謝したり褒めたりする言葉を日常的に意識しつづけて使うようにしている。
相手に対する思いやりもすぐ忘れる自覚があるから
少し無理やりにでも言葉に出している。
自分に近いところにある気持ちを相手に伝えるのはもっとハードルが高い。
理由を考えるのも恥ずかしいくらいに気が進まない。
真似できるようになるのは何年もあとの話だと思う。

私も伝えられれるようになると、むしろ伝えられないと
相手が消費され続けて底をついてしまうのではないかと考えがよぎるのが怖い。
相手が好きを伝える瞬間はわかるから身構えてしまうのは、
申し訳ない気持ちがあるのだろうか。

目標は相手の好きを受け取ったときに、
自分なりに理解したことを相手に返せるかが実感としてわかること。
次の目標で自分が伝えた結果、相手の反応を見て感情のやり取りが
正常に行われたことを確認すること。
「私も好き」とか「嬉しい」とかが記号ではなく自分の言葉として
言えればいいののかなと漠然と考えているけど、
相手と同じくらいの気持ちを求められていると即決して
自分も相手と同じレベルまで達するべきと囚われる必要はない。

++ 好きという前の相手を観察する
+ 好きを伝えた時の相手を観察した
・全体的に緩んでいる
・嬉しそう
+ 好きを言われたときの内省をした
・好きと言った瞬間の自分は相手にゆだねていてとても弱い気がする?
・受け取られなかったときの自分がみていられない?
・自分のことを嫌いな自分とコンフリクトを起こす?
+ 相手が言われたくない返しをした時の相手の観察をした
・すこし不本意な顔をする。斜め後ろを見ている
・すこし顔の力が抜ける
・淋しいとか抜けていくとかいうことを言う

++ 私も好きとか言ってみて相手を観察する?

 

相手に委ねるってことが難しいのかも。


②言い訳しないといけないような感情について。
深夜まで起きているとき、体に悪いものを食べるとき、何かしらにつけて
言い訳を言いながら生きている。その必要性について。