クズ所感

蟻以下が日々思うことをPDCAサイクりたかった。月2回程度。

20190708の所感 ~「好き」感情における現象学的再考察~

①昨年の<感情:-好き>に関して現象学的に再考察をしたい。
4月の時点では与える側の好きについての考察をしたつもりなので
受け取る側の好きについて。
言葉による<感情:-好き>を受け取った側が、送信側に対して<感情:-好き>
を伝えるために個人に最適化された言語的返答とは何か。
好きとはどういう感情なのか、実践と観察を通して理解する試みである。
簡単にわかることなのかもしれないけれどAならばB、BならばCなどと
アウトプットの積み重ねでようやく理解するのがクズなんです。

与えるだけであれば自分に対して好きとか嫌いとか関係なく相手のことを
思いやるだけでよいと極論考えていて、
受け取るより与えるほうが優位というか考えることが少なくて楽というか
めんどくさくないなと思って自分から与える人間になろうみたいなこと
を考えていました。

受け取る側になったときに、いざ相手の好きを受け取ろうとすると
脳内が思考停止する、表面的にふわっとしたことをいうと照れる。
じゃあ私も、言葉で返すにはプライドが止めてなんて言おうとぐるぐるする。
だから自分の中で受け取れる分だけ受け取って疲れない程度に曖昧に返す。
ってことをしてたら人に気持ちを軽く扱われているように感じるといった
フィードバックを受けた。
相手を消費させてはいけない気持ちがあって本意じゃないのでどうにかしたい。

言葉での愛情表現が異なること。
他人なので選ぶ単語だったり、頻度だったり、気持ちの入り方だったりが
違うのは当たり前だと思う。現実に存在する自分の傍にいる相手は、
気持ちが入るたびに何度も好きを伝える。それが嬉しくて相手を信用している。

気持ちを相手に話すことについて、自分は足りてない自覚があるから
感謝したり褒めたりする言葉を日常的に意識しつづけて使うようにしている。
相手に対する思いやりもすぐ忘れる自覚があるから
少し無理やりにでも言葉に出している。
自分に近いところにある気持ちを相手に伝えるのはもっとハードルが高い。
理由を考えるのも恥ずかしいくらいに気が進まない。
真似できるようになるのは何年もあとの話だと思う。

私も伝えられれるようになると、むしろ伝えられないと
相手が消費され続けて底をついてしまうのではないかと考えがよぎるのが怖い。
相手が好きを伝える瞬間はわかるから身構えてしまうのは、
申し訳ない気持ちがあるのだろうか。

目標は相手の好きを受け取ったときに、
自分なりに理解したことを相手に返せるかが実感としてわかること。
次の目標で自分が伝えた結果、相手の反応を見て感情のやり取りが
正常に行われたことを確認すること。
「私も好き」とか「嬉しい」とかが記号ではなく自分の言葉として
言えればいいののかなと漠然と考えているけど、
相手と同じくらいの気持ちを求められていると即決して
自分も相手と同じレベルまで達するべきと囚われる必要はない。

++ 好きという前の相手を観察する
+ 好きを伝えた時の相手を観察した
・全体的に緩んでいる
・嬉しそう
+ 好きを言われたときの内省をした
・好きと言った瞬間の自分は相手にゆだねていてとても弱い気がする?
・受け取られなかったときの自分がみていられない?
・自分のことを嫌いな自分とコンフリクトを起こす?
+ 相手が言われたくない返しをした時の相手の観察をした
・すこし不本意な顔をする。斜め後ろを見ている
・すこし顔の力が抜ける
・淋しいとか抜けていくとかいうことを言う

++ 私も好きとか言ってみて相手を観察する?

 

相手に委ねるってことが難しいのかも。


②言い訳しないといけないような感情について。
深夜まで起きているとき、体に悪いものを食べるとき、何かしらにつけて
言い訳を言いながら生きている。その必要性について。