クズ所感

蟻以下が日々思うことをPDCAサイクりたかった。月2回程度。

「好き」感情に関する一考察:現在の「好き」感情を見つめる話

 理想論を語っただけでは話も進まないので現実がうまくいかない話をしよう。
目的もなければ生産性もなく、思考も深まらず、文章はゴミだ。

 

 「好き」だと思う他人がいる。恋愛かどうかきめつけたくない気持ちもありつつ
メールのやり取りに依存して遊びたいと執着をしていて、遊べていない現実に
嫉妬をする。
優先順位を上げてほしい、自分と同じだけ好きになってほしいと
思いながら、
そんなことがないと日々羞恥心と戦う毎日をすごしている。
正直とても苦しいし、逃げ出したい気持ちでいる。

 

 この思いが一方的であることは知っていて、
きっと自分の思い描く「好き」でもないし、
うまくいかないことも経験的に分かった気になっている。
自分にできることは、この破壊的な感情を日々どうにかやり過ごすことだけだ。
 一方的ではあるものの、誰でもいいわけでもなく、
この人となら時間を過ごしたい、経験を共有したい、
関わっていきたいと思う人間は希少であって、これを恋と呼びたい気もするが、
これは中高生まで許される感情であって、大人の恋ではない気がする。

 

 前の時もそうだった、
 同じような顔をした、同じような言葉を吐く同じような価値観を持った人を
好きになって、その人は忌憚ない意見を出す僕のことを気に入って、でも
好きになって嫌われたくない感情が芽生えた結果、僕は好きになった人の相手として
つまらなくなるのだ。一方的な思いの癖に嫌われたくないとはいかがなものか。
その人の求めているものは、もっと軽く、責任もなく、でも依存させてくれる
存在であるとわかってる気がする、いう考えは感情的決めつけだろうか。

 

 一方で、自分のことを好きにならない人を好きになるのは心地よい。
自分が相手のことを10好きだとすると、相手は6ぐらい好きという関係が最高に心地よい。
感情の変化が激しい分、比較的穏やかな人に心地よさを感じて、
自分より感情が重い相手と居心地が悪く逃げ出したくなるのは、中庸に持っていきたいからなのかもしれない。

 

 他人に対して一喜一憂するのはとてもしんどいことではあるが、
期待からの絶望、絶望からの喜びが脳内麻薬として機能していて、
この刺激を味わわないと生きていけない状態になっているのだ。

 

 場所を変え時を超えても馬鹿みたいに繰り返す、
幸せになれない恋愛をしていないと生きていけない人間のことをクズと呼ぶ。